上野千鶴子先生の祝辞から思うことーFuck off 東大、Fuck off フェミニズム!

総論として、上記上野女史の祝辞は素晴らしいと思う。
 
今回の祝辞は賛否両論を呼んでいるが、否定派の中に多くみられる意見として「祝辞にふさわしくない内容である」というものがある。東大は、そのネームバリューのせいで、東大生含め多くのものが間違ったイメージを持っているように感じる。東大含め大学は、あくまで社会の入り口であり、到達点ではない。確かに新入生たちはこれまで、おそらく他の同年代よりも多くの努力を重ねて東大に入ったのであろう。その努力はたたえられるべきだ。(上野さんも冒頭で言及している)。しかし祝辞の目的とはそれだけなのだろうか?初めて親の庇護から離れ、社会の入り口に立ち、この荒れ野に挑んでいく学生たちに対して、彼らを待ち受ける社会にはどのような落とし穴が潜んでいるのかを示し、この4年間で何を身に着けるべきかのヒントを授ける以上にふさわしい祝辞があるだろうか。
 
もう一点残念だと思った反応は、上記を”フェミニズム”の主張であるとして聞く耳を閉ざしてしまっている人が多くいるように感じる点だ。日本では、フェミニストは嫌われる。そして面白いことに、最も強固なフェミニストの敵は女性自身である。私自身はフェミニズムに対してニュートラルであり、フェミニズム側の主張をすることもあるし、自分が攻撃側の女性であることに気づくときもある。
ロンドンで1年暮らすと、いかにフェミニズムに対する日本の反応が過剰かがよくわかる。私が現在在籍する大学では、入学手続きの一環として、新入生は全員必須で、セクシュアリティに関するワークショップを受講しなければならなかった。日本式のジェンダー観しか知らなかった私にとって、それは刺激的な2時間であった。冒頭の自己紹介では、その場にいた8人の、全く知らない、国籍も違う人々に、①ファーストネーム、②she/her pronouns か否か(私は女だが、女として扱われて構わないかということ。)、③自分が受けた性教育について簡単に紹介しろというのだ。恥ずかしながら、私は日本の学校では性教育を受けた記憶がない。しかし欧米の学生たちはかなり過激な性教育を受けてきているようで、私のとなりに座っていた、サラというドイツ系の女性は、11歳ごろから毎週のように学校で性教育の機会があり、ロールプレイング形式で行われるその授業において、「バスで隣に座った男性がコートを開き、”僕のロリポップを舐めてくれないか”と言われたらどのように対応するか」をロールプレイングさせられたのがトラウマだと言っていた。
ワークショップはそのまま続き、トランスジェンダーに関する簡単な説明、そしてフェミニズムについてのディスカッションに移った。ディスカッションでは、なぜ男性優位社会がなくならないのかについて話したのだが、それぞれの学生たちが憶することなく経験談をシェアしていたことが印象的だった。
日本の性に関する問題の大きなものとして、性(フェミニズム、そしてセックスそのものも含む)の問題について語ることがタブーとされていることが指摘できる。上野女史の祝辞に対しても「うわ、出たフェミニズム」といった反応が多くあった。しかし祝辞をきちんと読むと、フェミニズムのたとえは社会の不公正さの一例、女性学の話は、新しい知を生み出すというメタ知識の一例として紹介されているものである。彼女の祝辞全体をもって”フェミニストによるフェミニズムの文章”とみなすのは少し短絡的すぎるように思う。
 
なぜこんなことを長々と書いているかというと、上野女史のメッセージを読み、2点強く思うことがあったからだ。1つは、今回の上野女史の祝辞に対する日本社会の反応(ネットで見られる範囲の反応だが)は、今日時点での女性軽視の日本社会の様子をありありと示す、あまりに痛烈明快なスナップショットであること、もう1点は、いかに人々の社会認識の中で「東大生」「女性」といった社会ラベルによる思い込みが横行しているかが、この祝辞全体からわかるか、ということだ。
 
かくいう私も、かつては東大女子、現在は恐らく社会的に高いとされている職業についている。しかし東大に入る前は、幼稚園から高校まで一貫の女子校、しかも進学校というよりは”お嬢様学校”として名前を馳せているタイプの女子校に通っていた。極端な話をすると、大学に入学するまで、一人も男子の友達はおらず、父親以外の男性との接触はほぼ皆無のまま東大に入学した。東大の語学のクラスでは、30人のクラスのうち、女子生徒は4人だった。”従順、勤勉、愛徳”が校訓だった女の園(典型的、上野女史が言及している”彼女は頭が悪いから”サイドである)から、いきなり男子校(かつ高学歴)に放り投げられたようなもので、自分が慣れ親しんでいて、自分のアイデンティティの一部となっている価値観と、自分の周りの価値観のギャップに非常に苦労した。今でも苦労している。それについて語ると、おそらく小説が一本書けてしまうのでここでは省略するが、自分の経験から言えることは、社会では、女性であるということによって優遇もされるが、苦労もする。私という中身を見る前に「女である」というイメージがまず先立つ。それは良くも悪くも。社会的地位がまだまだ男性優位な中、そのようなmasculineな場所に飛び込む可能性が高い東大女子は多かれ少なかれ、社会から押し付けられる(本人が勝手に押し付けられていると感じる場合も含む)価値観と、自分の内にある価値観のギャップに苦しむであろう。またこれは女性に限ったことではなく、多くの東大生が、”東大生”というラベリングによって得もするだろうが苦労もするだろう。そのラベリングは、自分が意識的に無視しない限り、特に日本社会ではずっとついて回るし、恐ろしいのは、”東大生”ラベルで自分自身のアイデンティティを自分で覆ってしまうことだ。ラベルはあくまでラベルであり、外から見た際に目立ってわかりやすいし、相手をよく知らないうちは、そのラベルでもって演繹的に既存のフレームワークの中にその人を位置づけることで相手を理解する方が、帰納的に相手のひとつひとつの行動をもってその人を理解するよりも時間短縮になる。しかし、あなたが見ているのはあくまでラベルでしかなく、その人自身ではないということを理解しておかないと、そのラベルから勝手に何かを期待して、勝手に裏切られた気持ちになる恐れがある。
 
私が言いたいのは、Fuck off 東大生ラベル、女性ラベル!ということだ。私は私だし、私に付いているラベルから私のことを理解することなんてできない。ラベルを全部引っぺがされて裸一貫になったときに残る思考・志向・経験こそが私自身なのだ。そして大学時代に出会うものたちは、この思考・志向をある程度決定づけるものであるように思う。経験は大人になってからもある程度積める。大いなる嫉妬も込めて、これから大学に入るすべての人々に言いたい。I'm jealous of you, you have myriads of possibilities in front of you. Each decision, each word, and each deed will shape you and your future. Be free, safe and adventurous. There're so many exciting events in the world. I'm still excided about what will wait for me in my future. Join the club!!

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